二つの自由概念
「二つの自由概念」アイザイア・バーリン著
今でこそ、「社会主義や共産主義が人々を抑圧から解放する」という考えは誤っていることが明らかですが、そういった考えが主流だった1950年代に発表されたこの論文は当時としては画期的なものでした。
論文の冒頭でバーリンは「これまで永く政治学の中心問題であったもの」に関する二つの対立する観念について触れています。
その問題とは、「私達は自由に振る舞っていいのか、もしいけないとしたら、どの程度まで服従しなければならないのか、そして誰に服従しなければならないのか」という問いです。
この論文は国家について述べています。
国家について述べていると、規模が大きすぎて自分とは無関係に思えるかもしれません。
しかし、国ほどの規模ではないにしても私達もまた身近なところで組織に所属しています。
つまり、この論文は組織における自由について考えるのにも示唆を与えてくれるかと思います。
二つの自由
自由という言葉には二つの意味があるとバーリンは述べています。
その一つが消極的自由です。消極的自由とは、私達がどの程度まで国家に干渉されずにいられるか、ということです。
もう一つは、積極的自由です。積極的自由とは、私達が何者かになる自由、バーリンは「自分が考え、意思し、行為する存在、自分の選択には責任を取りそれを自分の観念なり目的なりに関連付けて説明できる存在」になる自由と述べています。
これは積極的自由を推すパターンかと思いきや、バーリンは積極的自由を突き詰めるとある危険にたどり着くと述べています。
積極的自由の危険性
バーリンは積極的自由は「自己支配」という倫理観を生むと述べています。
それは自分の潜在的な可能性を完全にするために真のより高い自我になろうとする意欲のことです。
現代では「圧倒的成長」とか言い出しそうな思想ですね。
この倫理観は一歩間違えれば、他人を利用したり自らの考えを押し付けてしまう可能性があります。
なぜなら崇高な目的を達成するためには達成に結びつく手段を他人に強制しても許されるという考えにつながるからです。(確かに意識が高い系はそうでない人を下に見る傾向はあるのかもしれない)
歴史的に見ても、ヒトラーやスターリンなどの独裁的指導者は崇高な目的を掲げて大衆を扇動し、悲惨な結果を生んだことはご存知だと思います。
私達も身の回りに、自分が正しいと思いこんで、その考えを基に目的を達成するためには手段を選ばない人がいるのを見たことがあるのではないでしょうか。
そういった人たちは、周りを非理性的な人間、つまり取るに足らない人間だと思いこんでいるのです。
彼らの問題点は、人間性には統一的見解や絶対的な理論があるかのように振る舞う点にあります。
そういった考えは反自由主義的でいかに善意に基づいていても、たいてい好ましくない結果に結びつきます。
よりよい社会にするには
より良いとされる倫理規範、行動規範に従って生きるように人々を促すことは一見理に適っているように思えます。
しかし、国家やその他組織がある一定の倫理的基準を設けて人々に強制することは、必ず腐敗や圧政につながることは歴史が証明してきたように思えます。
よりよい社会を作るためには、組織の構成員(国家で言えば国民)に自由裁量権をもたせる、つまり消極的自由を再検討する必要があるのかなと思います。(自分はどちらかと言えば積極的自由を推進してきた感はある)