21 Lessons for the 21st Century
「21 Lessons for the 21st Century」 Yuval Noah Harari著
世界的ベストセラーとなった「サピエンス全史」、「ホモデウス」に続いて2018年8月にこの本が発売されました。
邦訳されるのは2019年11月予定ですが、英語で読める人は読んでみることをおすすめします。
この本は、21世紀にまつわる21個の問題についての主張を述べたものであり政治、経済、宗教、テクノロジーなど多岐に渡って議論を展開しており、この時代に私達がどう問題に向き合っていけばいいのかのヒントを与えてくれると思います。
Chapter 1: Disillusionment
人間は事実、数字よりも物語を介して物事を思考しており、それもその物語が単純であればあるほど好まれます。
歴史を通して、人間は様々な物語を構築してきました。
宗教、資本主義、自由主義、民主主義、人権など挙げていけばきりがありません。
これらの物語を信仰することで人間は人生に意義を見出せたり、多数の人間での大規模な協力を可能にしたのです。
しかし、21世紀になって既存の物語が通用しなくなってきました。
資本主義は大きな格差を生み出し、民主主義は多くの場合ポピュリズムに陥りました。
宗教はもはや私達に生きる意味をあたえてくれませんし、むしろ宗教対立やテロリズムが顕在化しています。
21世紀に生きる私達が、どこか未来に希望が持てないように感じているのは既存の物語が通用しなくなり、世界が複雑すぎて理解が追いつかなくなったからです。
この時代において人々が納得する物語を構築するためには二つの革命、つまり情報工学、バイオテクノロジーに対する一定の答えを出さなければならないと筆者は主張しています。
確かにAIやアルゴリズムによって人間はどのように変化するかは未知数であり、バイオテクノロジーもまた、人間の遺伝子をいじれるようになった今人間にどのように影響を与えるかは予測不可能です。
21世紀に生きる私達が、「幻滅」してしまわないためには、この二つの革命を理解しなければなりません。
この問題を身近なものにするために、次章では「仕事」をもとに私達がどのように生きていけばよいかを考察します。
Chapter 2: Work
ここ数十年で脳神経学や行動経済学は人間の意思決定のプロセスについて明らかにしてきました。
そこで明らかになったのは、人間の直感は単なるパターン認識の結果であり完璧とはほど遠く、本能に左右されるなどして愚かな過ちを犯すということです。
つまり、今までは直感や個人の判断の裁量が大きいと思われていた職業、例えば投資家、弁護士、運転手などの仕事は多くの場合、パターン認識に長けたAIなどに取って代わられるということです。
この例から分かる通り、AIそれ自体が職を奪うのではありません。
生物学者が人間について明らかにし、そのデータをAIなどに学習させることによって初めて人間の仕事がAIに取って代わられるのです。
また、AIは人間にない二つのスキルである更新性、接続性を持っています。
要するにAIはデータを常に最新に更新し、それをインターネットにつながっている機械同士で共有できるということです。
幸か不幸か、このスキルを用いれば医者のように高度な教育が必要な職も奪われます。
医者は世界中の患者のカルテはおろか、院内の患者の症状すらすべて把握していません。
それに対して、AIは世界中の症例から患者に合わせて最適な治療法を導き出すことができ、その結果を常に他の機械と共有することができます。
従来は安泰だと思われていた職も安心はできないことがわかったと思います。
それでは、一体どういった職が生き残るのでしょうか?
筆者は、人間がAIに勝るのではなく、AIと協力する方向に職業も転換すると述べています。
しかし、そこには大きな問題が存在します。
それは、高度な専門的知識が必要になり、それについてこれない人がいわば「無用者階級」に陥るということです。
今の世界を見ても、AIはおろかスマホやPCがどのようにして動いているのか分かる人は少数派でしょう。
多くの無用者階級を抱えれば、当然彼らの生活のために基本的なニーズを満たす必要があります。
ここで考えられるのは、ユニバーサルベーシックインカム、もしくはユニバーサルベーシックサービスです。
前者は資本主義者、後者は共産主義者の理想と言えます。
しかし、ここにも問題が生じます。
それはどういった基準でユニバーサルとするか、そして何を基準にベーシックとするかというものです。
例えば本社がアメリカにあるグーグルのような企業に雇われている外国の労働者は、アメリカの国民の税金から収入を得ることは許されるのかという問題、また、生活のためにどの水準まで収入を与えるかという問題があります。
人間は生活に慣れてしまえば、さらに上の生活水準そ求めるようになるでしょう。
これらの問題を本当に解決するためには、個人にとって意義あるものを追求することに対するサポートが必要だと筆者は述べています。
例えば、スポーツや宗教を信仰することなどが考えられます。
つまり、ユニバーサルベーシックインカムを達成するには金銭的な面だけではなく、個人の人生に意義を与える何かを提供しなければならないということです。
なんにせよ、職が奪われても私達が貧困にあえぐといった未来は来ないように思えます。
むしろ、問題は職を奪われることよりも世界の主権をアルゴリズムに奪われることだと筆者は述べています。
隷属への道
「隷属への道」フリードリヒ・フォン・ハイエク著
第二次世界大戦が起きる前、ハイエクは当時幅を効かせていたドイツやソ連の反自由主義的な体制を危惧して、この本を書きました。
この本はイギリスやアメリカのような国でも簡単に全体主義に陥る危険があり、それは革命によるものではなく、経済の組織化を推進しようとする善意の人々によるものであるという、衝撃的な警告を発するものでした。
この警告は現代の社会情勢の核心をついていると思います。
なぜなら、今のアメリカは自国の産業を守るために保護貿易化する傾向にあり、従来のように自由貿易を推進しようとはしていないからです。
そのため、ハイエクの主張を学ぶことは現代の世界情勢がどこに向かうのかを考える手がかりとなると思います。
計画経済が孕む問題
歴史を遡ると、経済的自由が拡大するにつれてより多くの政治的自由が獲得されています。
例えばイギリスで労働者まで選挙権が拡大したのは、産業革命により大量の労働者階級が現れ彼らの地位が向上したためです。
そしてイギリスでは政治的自由が拡大するにつれて、国力が増していきました。
大英帝国が世界を支配していた20世紀の国際情勢を見れば明らかだと思います。
しかし、自由主義の成功そのものがその衰退の土台となったとハイエクは主張しています。
自由主義は多くの国を発展させたましたが、豊かになればなるほど野心と欲求が高まり既存の体制ではだめだと批判されるようになりました。
今の私達の周りでも、10年前よりも豊かなのは間違いないのに政治や経済に対する不満が絶えないのを見ればこの主張は理解できると思います。
そこで、この経済的問題を解決するために国家が介入することを人々が願うようになります。
しかし、国家の介入を許すということは必然的に自己決定の幅を狭めることを意味します。
計画経済の擁護者はしばしば、国家が介入するのは経済的な側面だけであると主張します。
しかし、人間にとって経済的努力は人生の大きな目標を達成するため、またはある価値観を体現するための根本的な手段です。
それが制限されるということは、人々の人生の大きな意義を奪うということに繋がり、結局は国家の名のもとに個人の幸福よりも国家の利益が優先されることになります。
また、計画経済は政府が経済活動を主導する、つまり中央集権的な経済体制だと言えます。
しかし、冷静に考えてグローバルな経済活動のすべてを政府が管理できるとは考えられません。
そのため、ソ連を見ればわかると思いますが、たいてい何らかの経済的問題が引き起こされます。
自由と経済的保障
自由主義的な経済体制の中では、競争原理が働きます。
競争経済下では、解雇される可能性や仕事が技術革新によって無くなる可能性を常にはらんでいるため、自分の雇用価値を高めるために職業訓練を受けたり勉強したりする動機はかなり強くなります。
みなさんが必死に受験勉強をしたり、スキルを身に着けようとするのも日本がある程度自由主義的で、その努力が価値を生むからです。
このように、個人が必死に雇用価値を高めようとすれば、社会全体の生産性も上がることは想像に難くないと思います。
もし、経済的保障が自由より大事だとみなされた場合、上記のようなメリットはすべて失われます。
自分がやる仕事の価値が、個人の努力や技術ではなく国家にとってどの程度重要かによって決まるなら、誰も努力しなくなるでしょう。
ここに、自由を制限する大きなデメリットがあると思います。
健全な経済とは
もちろん、完全に自由主義を信仰すれば問題が解決するとは限りません。
数十年前のアメリカの自由主義を推進する政策によって大きな格差が生まれたことは周知の事実だと思います。
しかし、だからといって自由主義というシステム自体を革新しようとすることは得策ではありません。
ハイエクも極端な困窮からの保護は必要だが、経済的安定が社会の基本的価値観としての自由を抑圧するべきではないと考えています。
つまり、重要なのは自由主義というシステムの中で弱者のためにセーフティネットを維持しつつ、健全な競争を促進する仕組みを構築することだと考えられます。
二つの自由概念
「二つの自由概念」アイザイア・バーリン著
今でこそ、「社会主義や共産主義が人々を抑圧から解放する」という考えは誤っていることが明らかですが、そういった考えが主流だった1950年代に発表されたこの論文は当時としては画期的なものでした。
論文の冒頭でバーリンは「これまで永く政治学の中心問題であったもの」に関する二つの対立する観念について触れています。
その問題とは、「私達は自由に振る舞っていいのか、もしいけないとしたら、どの程度まで服従しなければならないのか、そして誰に服従しなければならないのか」という問いです。
この論文は国家について述べています。
国家について述べていると、規模が大きすぎて自分とは無関係に思えるかもしれません。
しかし、国ほどの規模ではないにしても私達もまた身近なところで組織に所属しています。
つまり、この論文は組織における自由について考えるのにも示唆を与えてくれるかと思います。
二つの自由
自由という言葉には二つの意味があるとバーリンは述べています。
その一つが消極的自由です。消極的自由とは、私達がどの程度まで国家に干渉されずにいられるか、ということです。
もう一つは、積極的自由です。積極的自由とは、私達が何者かになる自由、バーリンは「自分が考え、意思し、行為する存在、自分の選択には責任を取りそれを自分の観念なり目的なりに関連付けて説明できる存在」になる自由と述べています。
これは積極的自由を推すパターンかと思いきや、バーリンは積極的自由を突き詰めるとある危険にたどり着くと述べています。
積極的自由の危険性
バーリンは積極的自由は「自己支配」という倫理観を生むと述べています。
それは自分の潜在的な可能性を完全にするために真のより高い自我になろうとする意欲のことです。
現代では「圧倒的成長」とか言い出しそうな思想ですね。
この倫理観は一歩間違えれば、他人を利用したり自らの考えを押し付けてしまう可能性があります。
なぜなら崇高な目的を達成するためには達成に結びつく手段を他人に強制しても許されるという考えにつながるからです。(確かに意識が高い系はそうでない人を下に見る傾向はあるのかもしれない)
歴史的に見ても、ヒトラーやスターリンなどの独裁的指導者は崇高な目的を掲げて大衆を扇動し、悲惨な結果を生んだことはご存知だと思います。
私達も身の回りに、自分が正しいと思いこんで、その考えを基に目的を達成するためには手段を選ばない人がいるのを見たことがあるのではないでしょうか。
そういった人たちは、周りを非理性的な人間、つまり取るに足らない人間だと思いこんでいるのです。
彼らの問題点は、人間性には統一的見解や絶対的な理論があるかのように振る舞う点にあります。
そういった考えは反自由主義的でいかに善意に基づいていても、たいてい好ましくない結果に結びつきます。
よりよい社会にするには
より良いとされる倫理規範、行動規範に従って生きるように人々を促すことは一見理に適っているように思えます。
しかし、国家やその他組織がある一定の倫理的基準を設けて人々に強制することは、必ず腐敗や圧政につながることは歴史が証明してきたように思えます。
よりよい社会を作るためには、組織の構成員(国家で言えば国民)に自由裁量権をもたせる、つまり消極的自由を再検討する必要があるのかなと思います。(自分はどちらかと言えば積極的自由を推進してきた感はある)
全体主義の起源
第二次世界大戦は人類史上最も悲惨な戦争でした。
その直接的原因となったのがヒトラーを総統とするナチスとスターリン体制下のソ連です。
本書において、アーレントはこの両国は政治体制は異なるものの、全体主義という一つのコインの表裏であると分析しています。
これらの人類の負の遺産とも言える考えを学ぶことは、同じ過ちを繰り返さないために絶対に必要なことだと思います。
また、全体主義に似た状況が実は身の回りに溢れていることが、この本を読めばわかると思います。
全体主義とは
全体主義のもとでは、個人の幸福や利益は無視され国家の名のもとにすべての国家的犯罪が正当化されます。
また、人々は国家に忠誠を尽くすことを強要され、思想、良心の自由は制限されます。
さらに、上述したように全体主義運動は様々な体制を取り、ナチズムは人種の名において大衆を組織化し、スターリン体制下では階級を重視しました。
要するに全体主義は、国民の思想を統制したり、敵を作る(ナチズムではユダヤ人、ソ連では資本主義または資本家)ことにより国を団結させようとするものであり、そのためなら粛清や虐殺も厭わないという思想のもとに成り立っています。
身近に潜む全体主義
ここまで読んで全体主義はなんだか恐ろしいなと感じたと思います。
しかし、全体主義は過去の産物ではなく私達の身近にも似たようなものが存在していると思われます。
例えば、ブラック企業をイメージしてもらえるとわかりやすいかと思います。
ブラック企業では会社に忠誠を誓い、個人の福利厚生は無視されます。
また、全体主義的な組織で生き延びるには周囲の誰よりも忠誠心と態度において過激でいること(定時に帰ることを許さない雰囲気とか?)、そして全体主義体制を持続させるには個人的な生活を排除することが肝だと言われています。
もちろんブラック企業ほど酷くなくとも、組織に所属する以上、程度の差はあれ個人よりも組織の利益が優先される状況に陥ることはあるかと思います。
個人の権利を守るために何をすればいいのか。そのヒントがアーレントが述べた全体主義からの脱却方法にあると思います。
全体主義からの脱却
全体主義的指導者は国民の思考を支配しようとします。
これはどの全体主義的組織においても共通しています。
そのため組織に対して、思考を支配されないためにはどうすればよいのかを考える必要があります。
最も有効だと考えられるのが多様な情報を受け入れるということです。(当然のようだが、早いうちに意識しておかないと思考力が低下して詰む)
現代社会で、独裁体制が敷きにくくなったのはSNSの普及などによって外部の情報が受け取りやすくなり、国民を思想的に支配することが難しくなったことも一つの要因としてあると思います。
同様に、今まで問題となっていなかった劣悪な労働体制が顕在化し始めたのも、組織の外の情報がインターネットにより可視化されたためだと考えられます。
つまり、私達が組織の価値観に固執せず、様々な価値観を受け入れることができれば特定の組織に思考を支配されることは少なくなるかと思います。(言うは易し、ですが)
何れにせよ歴史の教訓から学んで、一つの価値観に固執しないこと、そして積極的に自分が所属している組織の外の世界を見ることはこれまでも、これからも大切にしていきたいと改めて思いました。
自由と権力についての省察
「自由と権力についての省察」アクトン卿著
アクトン卿と聞いて、彼の顔が思い浮かぶ人はそう多くないと思われます。
しかし、彼の言葉を耳にしたことがある人は結構いるかなと思います。
代表的な言葉に、「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」という言葉があります。
彼は歴史家として生涯をかけて、人類が自由を獲得していく過程を明らかにしようと試みました。
その中で得られた彼の考察は、第2次世界大戦中に全体主義に対する警告のように捉えられました。
現代でも、トランプ大統領やプーチン、また安倍首相も国のトップとして権力を高めているように思えます。
そんな時代に生きる私達にとって彼の考察を学ぶことは大きな意味を持つのではないかと思います。
自由の歴史
アクトンは歴史を自由が拡大していく過程だとみなしました。
確かに歴史を俯瞰すると、フランス革命による身分制の撤廃、奴隷解放、女性の参政権の獲得など現代に近づくにつれ、多くの人々に自由が拡大しました。
今でも、さらなる女性の権利の向上や、昔は禁じられていた同性愛者に対しても権利が与えられ、自由が拡大しています。
しかし、すべてが歴史の流れ通りにうまく行っているわけではありません。
トランプが大統領になったのは白人の低所得者層が多数支持したためであり、彼らの多くは自国第一主義であり、差別的な人も少なくありません。
他者の自由を制限する方向にアメリカは傾いているとも考えられそうです。(短期的ですが)
アクトンは自由を「成熟した文明の傷つきやすい果実」と表現しています。
つまり、自由が制度の中に根付くのには時間がかかり、根付いた後も破壊や腐敗の可能性をはらんでいるということです。
現代では多くの自由が達成されていますが、維持するだけでも多大なコストがかかると考えられます。
自由とは
アクトンは自由を「権威や多数派や習慣、そして他人の意見の影響に反して、自分が義務だと信じることを誰にも邪魔されずにできるという保証」と定義しています。
さらに、彼は自由に対して明確な言葉を残しています。
「自由はより高度な政治的目的に到達するための手段ではない。自由それ自体が高度な政治目的である。」
この言葉を踏まえると、自由が最上の政治的価値だということになります。
現代社会では、以前よりはましでもまだまだ改善される余地があるというのが現実です。
実際に日本においても、女性の国会議員の割合の低さや世界報道自由度ランキングで67位になる(2018年)などまだまだ完全に自由になったとは言い難いなというところです。
アクトンは社会の繁栄のためには道徳的なキリスト教の土台が必要だと主張していました。
この主張のために、今ではアクトンの主張はあまり顧みられなくなりました。
しかし、彼の主張は時代の制約を受けていたと考えられます。
現代風に言い直せば、制度や枠組みにとらわれずに、国民一人ひとりが何らかの道徳的基盤(宗教の代替物となる)を土台にしようといった感じです。現代では制度(システム)的な解決法が主流な感じがあるのでやはり、相容れない感じは拭えない気がします。
雇用・利子および貨幣の一般理論
「雇用・利子及び貨幣の一般理論」ジョン・メイナード・ケインズ著
1924年10月24日、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落しました。
これが世界恐慌の始まりです。
これにより、アメリカでは失業者が1000万人を超え、イギリスでも100万人を下らない状況が何年も続いていました。
アダム・スミス以来の古典派経済学では不況に対処する方法は示されておらず、自由放任主義のまま時が解決するのを待つしか手はありませんでした。
そんな中でジョン・メイナード・ケインズはこの問題を解決するために新たな経済理論を打ち立てることに尽力しました。
今でもすべての不況による問題が解決されたとは言い難いですが、彼の理論を学ぶことは不況や失業問題を考えるためのヒントになると思います。
古典派経済学が抱える問題
「失業者」と聞くと働きたくても働けない人のことをイメージすると思いますが、それまでの経済学にはそのような定義はありませんでした。
失業者として定義されるのは、自発的失業者(よりよい労働条件が得られるまで働かない人)、摩擦的失業者(新しい職場で働くまで仕事をしていない状態、または技術の研修期間)のみでした。
つまり、当時の経済学は多くの非自発的失業者を目の前にしてそのようなものは存在しないと主張する、机上の空論だったわけです。
そのため、世界恐慌時の失業問題に対処することができませんでした。
一応、当時も失業問題を解決する方法は提案されていました。
それは「労働者の賃金を減らす」というものです。
賃金は労働時間に応じて得られます。
そして、得たお金で相応のモノを買うということは労働時間とモノを交換しているに等しいと考えられます。
時給1000円で5時間働いて、5000円の焼肉を食べれば、あなたの5時間が美味しいお肉に変わったということです。
そして大恐慌時にはモノが余ってしまい、売り切るために物価が下落した状態です。
要するに、5000円の焼肉が4000円で食べれるようになるということです。
そう見ると、労働者に余裕ができていいことのように見えますが、企業側からすると賃金を支払い過ぎているということになります。
そのため、物価と賃金が釣り合う水準まで賃金を下げれば、個々の労働者の労働時間が減り、生産量を減らしたくない企業側は多くの人を雇って生産量を補い、失業問題が解決するということです。
古典派経済学の主張としては賃金が減ったとしても、買えるモノの数に変わりはなく(例:時給1000円で5000円の焼肉を食べるのと時給800円で4000円の焼肉を食べるのにかかる労働時間は同じ)個々の労働時間も減り、雇用も増えるため、労働者を説得し賃金カットをするよう求めます。
ここまで読んで、あなたが労働者なら賃金カットに応じますか?
僕は応じないと思います。
労働者は物価と賃金の関係性など考えていないのです。
そもそも、企業が賃金を減らすために労働時間を減らすシステムをとることはありませんし、それどころか賃金を減らし、雇用も減らし、労働時間はそのままにして労働者を搾取する企業も現れます(今はブラック企業と呼ばれる)。
また、賃金を減らされた労働者は節約をするようになり、消費が冷え込みます。
そうすると、企業の売上が落ち込みコストカットのために人件費が削られ、労働者が犠牲になるという悪循環に陥ります。
結局、古典派経済学の理論は実際の労働者の心理や社会の実情を捉えていない空虚なものだと言えます。
完全雇用を達成するには
失業者をなくすためにはどうすればいいのでしょうか?
ケインズは「利子率を下げるべきだ」と主張します。
ここで、一旦、状況を整理したいと思います。
不況下では、供給過剰でものの値段が下がります。
このデフレを解消するためには、社会の有効需要を増加させなければなりません。
「有効需要を増加させる」とは簡単に言えば、みんながお金をたくさん使える状態を作るということです。
社会全体でたくさんお金を使える状態をつくるためには、社会全体の総和であるGDPを増やす必要があります。
GDPを増やすには、投資を増やす必要があります。
ここで言う投資とは主に企業の生産力を上げる設備投資をイメージしてもらうと良いです。
どんどん生産して売れれば景気が良くなるのは想像に難くないと思います。
それでは投資を増やすためにはどうすればよいのでしょうか?
ここで登場するのが「利子率」です。
企業が投資をするためには自己資金だけでは不十分で銀行にお金を借りる必要があります。
銀行からお金を借りると利子がつけられるわけですが、利子をたくさんつけられると返済に苦労するため投資は減ります。
つまり、利子率が高いと企業は投資を減らすため、景気が停滞するのです。
利子率が下がり、景気が良くなれば企業も人を雇う余裕がでてくると考えられます。
ここまで読めば利子率を下げるというケインズの主張は一定の説得力があるとわかります。
お金の性質
ここでお金と利子について考えてみましょう。
なぜ人々は利子もつかないのにお金を手元においておきたがるのでしょうか?
それにはお金の性質に関わる3つの動機から答えることができます。
- 取引動機
モノ・サービスの規則的な購入のため
- 予備的動機
モノ・サービスなどの予見されない購入のため
- 投機的動機
債券価格が将来下落しそう(損しそう)だから危険な資産(債権)ではなく金銭を保有しておきたいため
これらは流動性選好と呼ばれ、要するに人々がお金の利便性を好むということ、そして便利故にお金を手放せないということです。
利子率を下げるためには
利子率を下げるためにはお金の需要と供給がとても重要だとケインズは主張します。
お金の需要量とは簡単に言えば、債権(企業や国が資金を得るために発行するもの、利子付き)を売ってお金を持ちたがる人の量、お金の供給量とは債権を買ってお金を市場に供給する人の量です。
ここで債権をみんなが買えば、企業や政府が潤い、周り巡って不況が解決すると思うかもしれません。
しかし、不況下では利子率が高止まりして誰も債権を売りたがりません。
例えば、1000円の債権を利子率1%、つまり1000円貸して年に10円の配当があるときに買ったとしましょう。
ここで不況になり、利子率が10%になると配当が100円になります。
ここで債権を手放すと損することがわかります。
そのため誰も利子率が下がるまで債権を売ろうとしません。
つまり、このままでは利子率は高止まりし続けることになります。
それでは利子率を下げるためにはどうすればいいのでしょうか?
政府の役割
この状況で重要な役割を担うことになるのが政府です。
簡単に言えば、政府が金融市場の債権を大量に買うことで、大量のお金を供給し利子率を下げることができるのです。
この金融緩和政策をとれば理論上、完全雇用が達成されることになります。
しかし、利子率が一定まで下がると流動性選好によりまたお金の動きが停滞するため、政府が債権を売ったりするなどの操作が必要になります。
また、大恐慌時代では利子率を下げても投資できる僅かな体力も残っていないというのが現状なため、金融緩和政策だけでは十分でありません。
そこで必要となるのが政府のもう一つの役割である公共事業です。
政府が積極的に事業を起こし、雇用を創出することができれば失業問題は解決されます。
しかし、政府がなにかやろうとするとたいてい世論の反発をくらいます。
それもインフラがすでに整っている現代で税金を使って公共事業をやろうものなら無駄だと言われるのが関の山です。
しかし、働く意欲がある人を働かせずに人的資本を遊ばせておくほうが、よっぽど社会的に無駄だと思います。
それに、公共事業に使われた税金は賃金という形で家計に戻ってきます。
つまり、無駄と思われるような公共事業もマクロの視点から見れば、無駄ではないことがわかります。
モラル・サイエンス
ここまで読んで、ケインズの理論は大方理解できたと思います。
ケインズの理論は1960年台のケネディ、ジョンソン政権下で政策に取り入れられ失業率の低下と経済の発展に貢献しました。
しかしその後、有効需要を高めても失業率が低下しないといった事象が見られ、ケインズの理論は時代遅れと批判されることもありました。
もちろんケインズの理論が完璧とは思いませんし、時代の変化により時代遅れの理論となるのも時間の問題だと思います。
しかし、ケインズの重要な功績は経済活動を「神の見えざる手」から「人間の手」のもとに引き戻したことだと思います。
ケインズはこう主張しています。
「経済学は自然科学ではなくモラル・サイエンス、つまり哲学や歴史学と同じである。
経済とは人間の活動そのものであり、経済学者は机上の理論に固執することなく現実社会の実態を知るべきだ。」
ケインズの理論からは、「人間の活動によって引き起こされたものは人間の知性によって解決できる」という強いメッセージを感じます。
未だに不況や失業の問題は解決されていません。
また、格差も世界中で広がり続けるばかりです。
しかし、私達もまたケインズのように人間の知性を信じ、問題と向き合い続けることで明るい未来へ向けての道が拓けるのではないでしょうか。
統計学が最強の学問である
「統計学が最強の学問である」西内啓 (ダイヤモンド社/2013/1/24)
統計学とは
統計学は現代において最も重要な学問の一つといっても過言ではありません。
それはデータを用いて得られた答えはどんな権威やロジックをも吹き飛ばして私達をより正確な答えへと導くからです。
元々、主要な統計解析手法は1960年代頃にはほぼ出揃っていました。
現代統計学の父であるロナルド・A・フィッシャーが亡くなって50年以上が経っているにもかかわらず、それまでなぜ、統計学的手法は社会で主流ではなかったのでしょうか?
統計学が主流になった理由
それはデータの入力、管理、集計に手間がかかったことが大きな原因であると考えられます。
一昔前の主流の調査方法はパンチカードをコンピューターに読み込ませてデータを解析させることでした。
人間が手動で厚紙に穴を開けてデータを入力するのには膨大な時間と労力がかかったことでしょう。
しかし、現在はパンチカードに記録されていたデータはハードディスクなどに簡単に記録されるようになり、データ入力も画面を見ながら簡単に行えるようになりました。
また、統計解析の段階においても簡単なプログラムを書いたり、すでにある解析ツールを用いて大規模なデータの解析が可能です。
こうしたITの進歩が統計学を重要な学問にしたものと考えられます。
統計学を学ぶ意義
近年、ビックデータを解析することが統計学的分析において重要であるという風潮がありますが必ずしもビックデータを解析する必要はありません。
正確な答えを知るためには全数調査を理想とし、より多くのサンプルが必要だと考える感覚は多くの人が共感できるかと思います。
しかし、実際はサンプル数を一万から二万に増やしても誤差が0.1%しか変わらないことも多々あります。
つまり、分析にかかるコストがその分析によるメリットを上回るのならば正確性を追求しすぎることはデメリットを生みます。
重要なのは正しい判断に必要な最小十分なデータを扱うことです。
そしてそのデータ数は個々の事例によって異なります。
どれだけ解析ツールがAIなどの技術により発達しても、どのようなデータを用いて分析を行い価値を生み出すかは人間の仕事であり、そこに統計学を学ぶ意義があるでしょう。